たびたび申し訳ない

先の記事に対しては、トラックバックを頂いており、何らかの返答をしなければならないと思いながらも、果たせないまま一月が過ぎてしまった。また、現在私個人が使用しているパソコンが不調で、書込みが出来づらく、十分な返答を認めるのが難しい状況にある。
そうした訳で、返答はまだ遅延しそうであるけれども、さしあたって、本日記の詰まらぬ記事にまで丁寧なお答えを下さった、izw134氏には、心よりのお礼を申し上げたいと思う。

なお、本記事は、次の記事を投稿した後に、消去する予定である。

一般条項の地位低下?

izw134氏が、「現代日本法においては、一般規定の地位が低下しているのではないか、という感触がある」との、たいへん興味深い考察を発表されている。

一般条項の憂鬱 - アメリカ法観察ノート

この指摘には、少々、虚を突かれる思いがした。というのも、私は、どちらかといえば、反対の印象を抱いていたからである。しかし、旧商法典会社関係規定から、会社法典への移行が象徴的に示しているように、新規立法における「法の文体」が、より緻密により厳密になっている*1ことは確かであろう。その意味で、「一般条項の地位低下」という問題は、真剣な検討に値する、興味深い問題であると思われる。

もっとも、この問題においては、次の前提となる問いが、やはり重要であると思われる。

一般規定といってまず思い浮かべるのは民法90条なわけで、かなりクラシカルな規定なわけである。
最近の立法で一般規定らしい一般規定を思い出せない。
や、もちろん「最近の立法」を全部チェックしているわけでもないし(脚註略:引用者)、そもそもいずれの規定が「一般規定」に当たるかも相対的なものなのではあるが。
しかし、本当にそうか、近時の立法では一般規定はあまり盛り込まれないといえるか、という問いは検証するに値すると思う。

上掲記事(強調は引用者)

「一般条項」の典型イメージが民法90条であることに疑いはないであろうし、こうした「一般条項らしい一般条項」を、新規立法中ではあまり見かけないというのは、私もそのように思う。しかし、民法90条のように、要件のすべてが不確定概念で構成されているというものだけでなく、要件の一部*2に不確定概念を含む条項まで含めて、「一般条項」を観念する*3場合に、果たして、一般条項は減少しているといえるのか、また、仮に数が減っていたとして、「地位低下」は起こっているのか。なかなか、難しくかつ面白い問題であろうと思う*4。izw134氏のたいへん鋭い問題提起に乗っかる形ながら、今後もいろいろと考えて見たいと思う。

*1:まるで、租税法規であるかのように。

*2:あるいは重要な一部、と言ったほうがよいかもしれない。

*3:もっとも、この際には、”要件のどれだけの部分が、あるいはどのような部分が、不確定概念で構成されていれば、「一般条項」といえるのか”という、難しい問題が生じてしまうのであるが。

*4:一例を挙げれば、労働契約法16条は、解雇ルールを定めた”一般規定”であると解されている。そして、一般規定としての不明確さが批判され、より詳細な規定を行うべきであるとの見解が根強く主張されている。そこで仮に、現行の規定を改正し、整理解雇4要件等を明文化したとする。(こうした改正の方向は、同条に対する立法論の一つの有力な立場である。余事ながら、私もこれに賛成する考えをもっている。)この改正は、「一般条項の地位低下」であろうか。それとも、整理解雇4要件程度の規定では、なお不確定なものであるから、ある一般条項が別の一般条項に替わっただけなのであろうか。なかなか難しい。
また、「法の文体」における規制法的な作法の優越は、必ずしも一般条項の地位低下を招かないことは、租税法規がこれを示している。あれほど、詳細かつ「複雑怪奇」な諸規定を連ねていながら、なお肝心なところ(例えば、所得税法157条における同族会社の行為計算否認を参照。なお、同条は、要件ばかりではなく効果の点においても、不確定な側面をもつ。)においては、一般条項的色彩の濃厚な規定を残しているのである。
なお、コメント停止を継続しながら引用するのは心苦しいことであるけれども、かつてのrealiste氏と私の間での論点の一つが、この問題に係わる。以下の記事のコメント欄を参照されたい。
ゴルギアゼイン(ゴルギアスる) - if you cannot be friendly.
「敵」 - if you cannot be friendly.

コメント削除及びコメント停止について

1.本日、id:realiste氏より受けた20時21分付けコメントは、本日記コメント対処方針第1項b号に該当するものであったから、削除する。

2.id:realiste氏については、上記コメントのほか、コメント対処方針第1項b号に該当するコメントを繰り返しており、その中には、同方針第2項a‐2号またはc号に該当するとみられるコメントが含まれていた。同氏が、今後も削除対象となったコメントと同趣旨のコメントを行う虞が十分にあることから、同氏に対しては、本日記のコメント書き込みを許さないこととするのが相当である。従って、本日記コメント対処方針第5項a号を適用し、id:realiste氏のコメント書き込みを停止する。

3.id:courts-on-netid:dream-crasherid:ikedareaoid:real-Japan及びid:math-netaは、id:realiste氏のサブアカウントであるから、コメント対処方針第5項d号により、あわせてコメントを停止する。

4.なお、id:realiste氏が同氏の日記その他の管理者がアクセス可能なウェブページ上で、削除対象となったコメントと同趣旨のコメントを今後行わない旨を真摯に表明し、これを管理者に通知した場合であって、この表明が遵守されることが期待できると判断されるときは、管理者の裁量によりコメントの停止を見合わせ、あるいはコメントの停止を解除することがある。

5.本件に関する以後の告知は、本記事に対する追記をもって行う。

本日記コメント対処方針


06.6.9追記:
1.本文告知より、24時間が経過したので、告知に基づきid:realiste氏及びid:courts-on-netid:dream-crasherid:ikedareaoid:real-Japanid:math-netaの本日記へのコメント書き込みを停止した。

2.記事本文告知第4は、コメント停止以降も、効力を失うものではない。

3.なお、本件コメント停止とあわせて、当分の間、本日記へのはてなユーザー以外の方のコメント書き込みを停止する措置を採ることとする。この措置は、予告なく、管理者の判断によって取止める。

梶谷先生の記事

現代中国経済を研究されている、梶谷懐准教授が、先に放送されたNHKBSの番組について、論評をしておられる。

梶ピエールの備忘録。

私も、梶谷先生が事前に書いておられた紹介に触発されて、件の番組を視聴したのであるけれども、ほとんど眩暈を覚えた。なにも、汚職の酷さに憤慨して眩暈を覚えたというのではない(多少はそうした気持ちもあったが、それだけならば、事前に聞いていた範囲を大きく超えるものではなかった。)。むしろ、反対に、ある観点から見れば、贈収賄という慣行が、極めて「合理的」な「システム」として成立しているのだ、という事実を、改めて突きつけられたためである。

梶谷先生も、こうした問題意識にたって、開発経済学における「汚職の効率性」を巡る議論について紹介をされている。これによると、「汚職」というのは、場合によっては希少性を有する公共サービスを効率的に分配するシグナルとしての働きをすることがあり、公務員のインセンティブを高める効果があるかもしれないというのである。
むろん、だからと言って、直ちに贈収賄を礼賛すべきであるということにはならない。汚職の慣行が、提供される公共サービスの種類に歪みを与えてしまうこと、収賄側に一種の独占利潤がもたらされる虞が強いこと、「法の支配」への信頼を損なうことといったデメリットが考えられるからである。

こうした紹介の後、梶谷先生は、大意、1.一国の賄賂蔓延の程度と経済成長率には、関係が有る可能性がある、2.賄賂の蔓延した社会における経済成長は、格差拡大をビルト・インされているものであるかもしれない、3.汚職防止のための公共セクター縮小というのは若干的外れな方策である、との見解を述べておられる。特に興味深いのは、第二点である。

賄賂社会は、たとえ表面上はうまく回っているようにみても、実際は政府が貧しいものに全てツケを回す形で「私的」に財・サービスを提供しているに過ぎない。それは経済成長の過程で格差が際限なく拡大することがビルト・インされたシステムだといってもいいかもしれない。社会全体がその構図に耐え切れなくなったときに、おそらく暴動や内乱が起こる。ケニアがまさにそうであったように。

上掲記事より引用

「より上」にいる者が、不可欠な資源を押えてしまうことによって、「より下」にいる者から無制限に給付を「巻き上げる」*1ことの出来る社会。その根を絶つためには、「暴動」や「内乱」に頼らなければならない社会。


いろいろな考えを誘われる優れた記事である。いずれにせよ、上で述べた状況の改善には、「法の支配」の確立が必要となって来ようけれども、では、果たして、「法」の側は、錯綜した事情に切り込めるだけの、十分鋭利な道具立てを備えているといえるのだろうか。贈収賄はなぜ違法なのか、私的取引とどこがどのように違っているのか、といったことさえ、未だ十分な解明がなされていないように思われる*2 *3


08.6.21追記:
記事本文で触れた、「巻き上げる」という問題系*4について、ミクロ経済学的なアプローチは、どこまで接近できるのだろうかなどと、梶谷先生から頂いたコメントを契機として考えていたところ、偶然にも、松尾匡先生の新著を巡ってウェブ上で交わされた議論が、この問題意識の一端に関するものであるように思われるので、typeA氏による同議論の引用集をメモしておく。
マルクスは滅びん、何度でも甦るさ。
個人的に興味深かったのは、同議論に関連してたどり着いた、econ-econ氏の次の記事であった。
http://d.hatena.ne.jp/econ-econome/20070919/p1
この記事では、辻村江太郎先生の『経済政策論』を引かれて、エッジワースボックスに交換参画主体の最低限必要初期保有量を加えた考察を行うことで、競争均衡によるパレート最適実現が可能である場合とそうでない場合とが生ずることが論じられている。
「巻き上げる」現象に迫るためには、こうした最低限初期保有量という視角(いわば、元物と果実の区別)は非常に有益なものであるように思われる。この視角と、「独占」理論を組み合わせることで、「巻き上げる」現象の重要部分は捉えることができよう。ただし、それで本当に十分であるかどうかについては、なお検討を要するであろう。今後も、考えてみたい。

*1:むろん、「巻き上げる」とは、正確には一体どういうことなのか、というのが、一つの大きな論点である。

*2:これは、あるいは、およそ「公職」といったものについての、基礎理論が十分でない事情と関係しているのかもしれない。

*3:関連して興味深いのは、梶谷先生が、”賄賂社会”における、「法の支配」への信頼低下と貧困の再生産との「悪循環」を指摘された上で、「このような悪循環の存在は、「法の支配」さえあれば経済システムに自生的秩序が生じるであろう、というハイエク的な市場観のアポリアを示しているとはいえないだろうか」としておられることは、興味深い。ハイエクが理論構築に当たって、イギリス社会の経験を強く意識したことはよく知られている。梶谷先生の問題提起には、イギリス社会が、大雑把に言って、「政府」を「社会」からのソフトな順接で結びつけることができた稀有な例であったという事情が関係しているように思われる(この点については、下の記事で簡単に触れたけれども、勿論事情は単純ではない。)。
東・終風論争 - if you cannot be friendly.[4月23日付追記参照]

*4:「搾取」というイメージが、この「巻き上げる」イメージと密接に関連することはいうまでもない。ただし、「搾取」イメージは非常に広範な現象を含みえるものであって、詰めた議論を行う際に必要な識別力を、およそ欠いているように思われる。他ならぬ数理マルクス主義経済学の重要な成果の一つは、このことを明らかにしたことであった(と理解しているのであるが、何分、素人であるので、誤読もありうる。御叱正を待つ。)。本日記の問題関心は、一度「巻き上げる」イメージに立ち戻って、自発的に行われてはいるけれども正当化することのできない給付を識別する概念を精製することはできないだろうか、というものである。

日本の「反知性主義」

仲俣暁生氏が、ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』に対する書評を発表されことを契機として、幾人かの論者の方が、「反知性主義」に対してコメントしておられる。なかなか興味深い問題ではあるので、メモしておくこととする。

http://d.hatena.ne.jp/solar/20080526*1
「反知性主義について」(改題) - 虚舟庵雑録
アメリカは反知性主義でもあるけど - finalventの日記
反知性主義とか優越感とか - A Road to Code from Sign.

私も、気が向けば幾つか思うところを追記で書き付けようかと考えている。差当り一つだけ述べておくとすれば、この「反知性主義」の問題は、「都市」と「領域」、そしてそれぞれが産み出す思考様式の関係という視角から眺めてみなければならないように思われる*2。その意味で、虚舟庵御主人が、トクヴィルを引いて、デモクラシーと「反知性主義」の関係を忘れてはならないとの警告を発せられたのは、まことに正鵠を射た応答であったと考える*3

08.5.27追記:
次の通り、記事本文に対して、izw134氏よりトラックバックを頂いた。また、虚舟庵御主人が、先の論考に対する補遺を公表された。

Versions of Democracy - アメリカ法観察ノート
「反知性主義」について(補遺) - 虚舟庵雑録

それぞれ読み応えのある論考であり、私が追記をする必要はなくなったと思う。
特に、izw134氏が「デモクラシーの諸ヴァージョン」という発想を示して、それと「都市」・「領域」の問題を関連させて考察すべきだと示唆されていることは、大いに頷ける。虚舟庵御主人が本文引用記事中で引いておられる、william1787氏の『研究生活の覚書』という日記においても、同じような問題意識に基づく考察が展開されており、是非ともの参照に値する。

08.5.28追記:
虚舟庵御主人が、更に考察を進めておられる。

日本近代史についての雑多な覚書 - 虚舟庵雑録

知識人論に関するご所見の部分はともかくとして、「デモクラシー」を社会状態として捉えることを明らかにされたことは、実りある議論へ繋がる途であって、全面的に賛成できることと思う(なお、izw134氏の上記論考も、実はこのことを前提としていたものと読むことができよう。「都市」と「領域」の関係を深く問うとは、正に「社会状態」を問うことに他ならぬのであるから。)。
一つだけ留保を付すならば、「そもそもアメリカの建国者たちからして、古代ギリシアやローマというのは反面教師として存在していた」と断ぜられている部分には、疑義が残る。確かに、釤建国の父”達は、ギリシア・ローマをそのまま再現しようとしたのではなく、それらのパラダイムの欠点に鋭い目を向けていたことは明らかであろう。しかし、だからと言って、直ちに、ギリシア・ローマは「反面教師」に過ぎなかったということはできるだろうか。一考を要するように思う*4

08.5.29追記:
議論の発端たる仲俣氏が、追加の論考を発表されておられる。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20080527#p1

08.6.3追記:
izw134氏が、上に掲げた記事に対する私の質問に答えて、記事を書いてくださっている。同氏には、心より感謝申し上げたい。
米国型違憲審査制についての覚え書き - アメリカ法観察ノート*5
なお、次の関連記事も、参照に値する。
哲学イルヨ - アメリカ法観察ノート

*1:些事ではあるけれども、この記事中の追記において、仲俣氏は、虚舟庵御主人の文仲氏を、稲葉振一郎先生であるとしておられる。私は、文体や波山堂におけるお話からして、別人なのではないかと思っていたのであるが、あるいは私の勘違いであったのだろうか。そうだとすると、稲葉先生の芸域の広さというものには、驚かされる。08.5.27訂正:稲葉振一郎先生のご教示及び本文追記引用の虚舟庵記事により、稲葉先生と文仲氏は別の方であることが明らかとなったので、その旨訂正する。なお、仲俣氏もその後記事を訂正された。

*2:参照:
大室幹雄『正名と狂言―古代中国知識人の言語世界』(せりか書房 1975)
新編正名と狂言―古代中国知識人の言語世界

*3:もっとも、私自身は、広い意味での「大正教養主義」を、他ならぬデモクラシーとの関係において再考し、その最良のエッセンスを、今後の社会構想にあっても活かしていくべきであるというように考えている。

*4:関連して、ギリシア・ローマを批判する文脈で、ハイエクの自生的秩序論には「政治学」としては賛同できない、という命題を提出されている点も、釈然としない。あるいは、虚舟庵御主人は、「ギリシア・ローマの『国家』は、自生的秩序の一種であった」という、―いわば―フュステル・ド・クーランジュ風の見方をされているということであろうか。

*5:なお、ここでの論点―但し、具体的な見解の相違というよりは、観点の相違という面が大きい―は、当然、次の書のテーマに関係するものである。
阪口正二郎『立憲主義と民主主義』〔日本評論社 2001〕
立憲主義と民主主義 (現代憲法理論叢書)
立憲主義と民主主義 (現代憲法理論叢書)

一事不再議と衆議院の優越

先に、本日記において、岩本康志教授の書かれた記事をもとにして、今般の通常国会における租税特別法改正に関する騒動に関する雑考を行った。

租税法規の遡及適用 - if you cannot be friendly.

その後、岩本教授は、この騒動に関する新たな論考を三つ発表しておられる。

なぜ民主党は対案を可決しなかったのか ( その他経済 ) - 岩本康志のブログ - Yahoo!ブログ
ねじれ国会+会期制+一事不再議=不条理 ( その他経済 ) - 岩本康志のブログ - Yahoo!ブログ
ねじれ国会+会期制+一事不再議=不条理(解決編) ( その他経済 ) - 岩本康志のブログ - Yahoo!ブログ

これらの論考の中で、岩本教授は、両院間関係の”ねじれ”に伴う混乱の元凶を、「会期制」に求められ、これを廃止するべきであるとしている。
私も、現在の国会制度における「会期制」には種々の問題があり、場合によっては、「立法期制」を導入することも選択肢にいれた検討が必要ではないかという点については、岩本教授と同じ見解を有する者である*1。しかしながら、その結論を導くため岩本教授が挙げられる論拠には、事実及び評価の双方において、疑義がある。
そこで、以下に私見を開陳しようと思うのであるが、手許に参考資料がないため、週末にそれらにあたってから追記する。

08.5.23追記:
本文で、「週末に」と書いたけれども、先程検索したところ、いつも利用する自宅近所の公共図書館に、『衆議院先例集』、『参議院先例集』の最新版が入っていないことが分かった。これらは、当たらなければならない資料であるので、予告よりも、完成が遅くなる可能性がある。
なお、この追記と本文最終文は、記事完成後に削除する。

08.5.23追記2:
いろいろと検索をしてみたのだけれども、『先例集』は、容易にはアクセスできないようである。したがって、きちんとした材料を示しての議論の展開は、暫く先送りとせざるを得ない。もっとも、折角予告をしたことではあるので、以下に、記事本文で記す予定だった私見の要旨を書いておくこととしたい。

1.民主党の「対案」戦術は、政府・与党に対する真の意味での牽制とはならない。なぜなら、「対案」が成立したとしても、これとは別個に、「政府案」についての「つなぎ法案」(特に、揮発油税暫定税率の遡及適用を回避する条項)を成立させることは可能だからである。むろん、民主党がこうした「つなぎ法案」を拒否するということも考えられるが、その場合に政府・与党が困るのは、「つなぎ法案を拒否されたから」であって、「『対案』を参議院で可決されたから」ではない。「つなぎ法案」を拒否するというのは、暫定税率の遡及適用を事実上認めることに繋がりかねず、国民世論の関係上、必ずしも民主党にとっては得策でない。このように、民主党参議院における「対案」の議決を見送ったのは、政治的効果が薄いと考えたためであると思われる。

2.参議院が、「対案」を可決した場合に、これについて憲法59条2項を適用するという与党のアイディアは、手続上も実質上も、「無理筋」ではない。手続き上についていえば、参議院からの「対案」送付を待って、当該送付案を、「政府案」についての回付案と解する旨の院議を行えば、「議案が参議院にあるのに再議決を行う」ことにはならない。また、「対案」の議決が憲法の定める「衆議院の優越」を潜脱する意図で行われていること、国会法56条の4の趣旨、及び衆議院が同条について「対案」を「同一の議案」に含める解釈を採っていること、という事情に照らしてみれば、衆議院送付案と同一事項に対する異なった内容の参議院の議決を、送付案に対する修正議決と解釈することは、十分な理由があり、「奇策」ではない。
もっとも、送付案を回付案と解する手続きについて憲法や国会法が明文の規定をおいていないことは事実であり、再議決の後に、参議院がこの点を論拠としてなお抵抗をはかった場合、極めて深刻な憲法紛議が生ずることとなるのは、岩本教授の指摘の通りである。国権の最高機関である国会の両院が、法律の成立を巡って真っ向から対立する事態が出来したとすれば、それは、真の意味における「統治の危機」であって、政府・与党、野党といった区別をこえて、およそ憲政自体を揺るがしかねない。したがって、こうした危険が回避されたことは、賢明な選択であったということができる。
なお、参議院からの送付案を回付案と解釈することが必要となるのは、「衆議院送付案を議決せずに対案を可決する」という、参議院の「奇策」が行われた場合である。したがって、今次の参議院が、こうした「奇策」を行わない決定をするに当たって、それが上記「統治の危機」に繋がりかねない方策であることも、当然考慮されたことであろう。逆に言えば、与党側の牽制は、まったくの無意味ではなかったこととなる。

3.衆議院の送付案が参議院で会期中に議決を得るに至らず、継続審議となった場合、次の国会においては参議院先議の議案として扱われる。これは岩本教授のご指摘の通りである。しかし、当該議案が参議院で否決された場合、衆議院は優越の発動の機会を奪われることとなって、憲法の定める統治構造に反しかねない。そこで、こうしたときには、衆議院に同一議案を提出することが一事不再議の例外として許される、というのが、多くの学説の認めるところである。岩本教授の議論は、この見解に触れていない点で、均衡を失している。同様に、会期制を廃止して、「立法期制」を採用した場合には、「一事不再議」の範囲について、より柔軟な判断が必要となってくるのは明らかであるが、岩本教授はこれにも論及していない。
そもそも、「一事不再議」は、明文の規範ではなく、議事運営上の便宜・適切を図るために「習律」レベルで定着した原則である。このことから分かるように、「一事不再議」は、固定的・絶対的なルールではない。なぜなら、厳密なルールとして定めてしまうと、「一事」の範囲などの困難な問題について、解釈の柔軟を欠き、かえって議事運営上の便宜・適切を損なってしまうからである。したがって、「一事不再議」は「衆議院の優越」といった大原則の前では、これに抵触しないように解釈することが必要であって、「一事不再議」を盾にとって、憲法に定められた国制の趣旨に悖るが如き行為は、厳に慎まなければならない。会期制の廃止をいうのは、その前提が共有された後の話である。

*1:ただし、日本国憲法は、明文の定めこそないものの、常会・臨時会・特別会の制度を設けていることから、会期制を前提としている。したがって、会期制の廃止には、憲法の改正が必要となるものと思われる(かつて、田中角栄内閣下で、「通年国会」制度が検討されたことがあったが、憲法上の配慮から沙汰止みとなったことがある。)。また、現在の議院慣行が、会期制に基づいて形成されているため、その廃止は、種々の波及効果を生むこととなる。したがって、廃止のためには、なお検討すべき多くの課題が残るものと考えている。

「敵」

尊敬すべき論者、hokusyu氏の論考に、次のような一節があった。

むしろ言葉の定義をするべきです。というのは、まさにこれはカール・シュミットが『政治的なものの概念』で述べた「(自由主義は)精神と経済とのジレンマにおいて、敵を、取引の面からは競争相手に、精神の面からは論争相手に、解消しようとする」事例に他ならないからです。
(中略:引用者)
貧乏人の敵は金持ちであって、貧乏人ではありえません。この伝統的な敵対関係が解消されうるような社会的変化はおこっていないので、現状においては金持ちと貧乏人は敵対しているという事実を認めなければいけません。では、この対立は本質的なものでしょうか。もちろん違います。敵対関係とはいかなる場合でも偶有的なものなのです。しかし、間違えてはいけないのは、だからといってその敵対関係が、「対話」による「合意」によって解決するものではないということです、敵対する相手を単なる「論争相手」に解消することは、シュミットが述べているように「経済的競争相手」に解消するのと同様の過ちであると考えなければいけません。なぜならば、いくら議論しても合意に至ることが無いような敵対関係というものは存在するからです。

敵対関係について - 過ぎ去ろうとしない過去

記事全体について見ると、シャンタル・ムフが引用されているなど、なかなか興味深いものであるが、引用部後段は、シュミットの見解とは少々異なるのではないかと思われる。「貧乏人」対「金持ち」というような「伝統的対立関係」の相手と、「政治的敵」の混同こそ、シュミットが反対したことであったのであるから。或いは、意図的にされた転轍であるのかもしれないけれども、「偶有的」といった術語を引かれて議論されているだけに、やや気になるものではある。
シュミットが、実のところ、ギールケに反対している、即ち「国家有機体説」には与していないのであるということは、なかなか理解されないのかもしれない。

08.5.19追記:
シュミットの「友敵関係」論というのは、一見するとおどろおどろしい議論に感ぜられるが、実は、「政治とは自由な決定のことである」、という西欧政治思想史では殊更珍しいものではない観念を、シュミット流に再解釈したものに過ぎない。
「自由な決定」であるのだから、社会に絡み付いている様々な利害関係にひきずられて結論を出してはならない。経済等の文脈に、一切拘束されてはならない(「競争相手」との混同の戒め)。しかも、その結論となる内容にも、予め制限があってはならない。従って、「政治」は、相手方の存在自体の抹消という、もっとも極端な結論を出すことすらできる(「論争相手」との混同の戒め)。このように考えれば、シュミットは、なにか特異な主張をしているというわけではないことが分かる。

08.6.22追記:
記事本文及び5月19日付追記で、hokusyu氏の「政治的なもの」に対する捉え方が、シュミットの議論と整合的であるかどうかについて疑義を呈したけれども、その後、hokusyu氏は、再び「政治的なもの」について言及した論考を示しておられる。hokusyu氏の「政治的なもの」についての考え方を吟味する一助となるかもしれないので、引用しておく。
「聖なる」街と「引き裂かれた」街 - 過ぎ去ろうとしない過去
この論考の中でhokusyu氏が使われている、「政治的なもの」というのは少々明瞭性を欠いていて、私も十分に咀嚼できているわけではない。しかし、「政治的なもの」の例解として、靖国神社を挙げておられることからすると、シュミットの言う「伝統的対立関係」をも含んで観念されていることが窺え、その限りで、やはりシュミット流の「友敵関係」とはズレのある、originalな概念であるように思われる。
なお、hokusyu氏が記事の主題としておられる、時事問題についてのご見解に関しては、私は、賛否いずれの感慨も有していないことを付言しておく。